松本清張 全集 目次 7

月報 918.6||M4 233312B. OPAC. 金城学院大学 図書館. 大阪樟蔭女子大学 図書館 小阪. 目次 松本清張[論考+エッセイ] 第一章 〈邪馬台国〉史考 日本の古代国家 邪馬台国の謎を探る/玻璃の璧と伊都国 邪馬台国「私説の要点」/吉野ケ里と邪馬台国の影 逃げ水 邪馬台国 第二章 〈記紀・風土記〉考 出雲国風土記(抄)/日本書紀をよむ(抄) 第三章 〈飛鳥と古代アジア〉史考 � タイトル読み. また松本清張記念館に展示される清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、広島市内の実在する地名「広島京橋」と、広島市内に実在した写真館の名前がはっきりと記載されている[5][7][8][12][13]。, この他、清張自身「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」[14]「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」[15]と記述している『父系の指』の中で「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いており[8]、清張研究の第一人者といわれる[16]郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原は「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」「清張の出生地は広島」としている[5]。郷原はこの「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)と推定している[5]。, 『松本清張の残像』(2002年)の中で、「松本清張は広島生まれ」と指摘した松本清張記念館館長・藤井康栄は「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」としつつも[17]、2009年に朝日新聞[18]や中国新聞[19]紙上で、清張は広島生まれとしたうえで、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している。ただ藤井が「松本清張は広島生まれ」と指摘して以降、清張関連文献に於いて「広島生まれ」と記述するものが増えてきている[8][10][20]。 経緯に関しては、佐野洋『ミステリーとの半世紀』277-281頁、郷原宏『物語 日本推理小説論争史』(2013年、双葉社)第三章も参照。, 伊藤が官憲のスパイとされた根拠については、2013年現在、その信憑性がほぼ否定されている。詳細は, 平野謙に拠る表現。平野は作者がこれらの作品の主人公へ共感を寄せると共に、その限界を客観的に洞察しているとして評価し、「私小説のように見えるが私小説ではない」「世のつねの被害者意識いっぱいの私小説をつきぬけたところがある変形私小説」などと評している, 清張の推理小説を「社会派」の文脈ではなく、横溝正史などの古典的探偵小説と連続した系譜に位置付ける論考として、, 「『純』文学は存在しうるか」において、「プロレタリア文学理論やその党派的行きがかりに全く煩わされなかった松本清張」により「資本主義の社会悪をえぐって描き出す大きな作品」が実現されたと書き、清張を一時高く持ち上げた文芸評論家。, 『日本の黒い霧』を歴史学的視点から検証したものとして、藤井忠俊「「日本の黒い霧」の時代認識と評価―「黒地の絵」と帝銀・下山・松川事件諸作品の資料検証」(『松本清張研究』第5号(2004年、北九州市立松本清張記念館)収録)がある。, 『探偵小説四十年』中の「涙香祭と還暦祝い-昭和二十八・九年度」の「翻訳ブームの曙光」などにそうした記述があるが、清張との対談『これからの探偵小説』中でも、清張に対して同様の見解を述べている。, 木々の死去を受けて、清張は日本推理作家協会の機関誌『推理小説研究』第7号(1969年)巻頭に追悼文を掲載している, この論争の詳細は、荒正人・中島河太郎編『推理小説への招待』(1959年、南北社)を参照。, 岡崎満義は「社会で機能する具体的な権力の1つとして(共産党の)効用を認めていたが、観念論の網にからめとられることはなかった」と回顧している。, 英語力に関しては、文藝春秋関係者、海外取材同行者、エラリー・クィーンとの対談時の同席編集者など、証言多数, 「無念無想でパチンコに集中していると、ふっとアイデアが浮かんでくる」とも述べている, 清張が来店したとわかると、パチンコ店の店員が玉を持ってきたり、コーヒーを用意する店もあったが、本人はそのように気を遣われるのを嫌がっていた, 半藤一利によれば、「相当手荒く扱われたという思い出だけを語る人もいるようです。が、それは清張さんの眼から見て、編集者として一種落第であったため、としか考えられないのです。とくに約束にたいしてズボラな者には厳しかった。清張さんの優しさにふれられなかった人は、自分で自分の胸に手をあてて考えてみたらよろしいのではないか」, 映画『砂の器』のラストに関して清張は、「小説じゃ書けないよ。映画でなけりゃできない、すごい」と褒めたという。また「映画化でいちばんいいのは『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』だ。両方とも短編小説の映画化で、映画化っていうのは、短編を提供して、作る側がそこから得た発想で自由にやってくれるといいのができる。この2本は原作を超えてる。あれが映画だよ」と述べたという, 『松本清張傑作選 戦い続けた男の素顔―宮部みゆきオリジナル セレクション』新潮社、306頁, 『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)巻末の「記念館だより」, 小野芳美「古代史・考古学への目覚め-朝日新聞社時代の松本清張-」(『松本清張研究』第7号(2006年、北九州市立松本清張記念館)収録), 『松本清張自選傑作短篇集』(1976年、読売新聞社)巻末自作解説「私の推理小説作法」。「怨霊のなぐさめ」(エッセイ集『名札のない荷物』、『松本清張全集 65巻』収録), 「松本清張の時代に生きて」(『松本清張研究』第4号(2003年、北九州市立松本清張記念館)収録), 「清張の言うクリスティの「砂袋」とは」(『松本清張研究』第14号(2013年、北九州市立松本清張記念館)収録), 『清張日記』(『松本清張全集 第65巻』などに収録)中、「昭和五十七年・九月五日(日)」の項, 天野敬子「幻の歴史小説」(『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。, 「『日本の黒い霧』-私はこう読んだ」(『松本清張研究』第5号(2004年、北九州市立松本清張記念館)収録), 「『草の径』取材随行者座談会 あの旅行は楽しかったね」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録), 『着想ばなし(15)』(『松本清張全集 第56巻』(1984年、文藝春秋)付属の月報に掲載), 「『点と線』から『霧の会議』まで - 清張ミステリーの系譜」(『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)収録), 中島河太郎「推理小説における清張以前と以後」(『国文学 解釈と鑑賞』1978年6月号掲載), 「清張古代史の現在を再検討する」(『松本清張研究』第6号(2005年、北九州市立松本清張記念館), 森浩一「清張古代史を語る」(『松本清張研究』第5号(1998年、砂書房)収録)。『火の路』(2009年、文春文庫)巻末の森による解説, 野平健一「担当記者「東名」の死」(『松本清張全集 第42巻』(1983年、文藝春秋)付属の月報に掲載), 『小説ほど面白いものはない』(『小説新潮』1984年3月号掲載、山崎豊子「小説ほど面白いものはない 山崎豊子 自作を語る3」(2009年、新潮社)に収録), 「これからの探偵小説」(『宝石』1958年7月号掲載、『江戸川乱歩と13の宝石 第2集』(2007年、光文社文庫)等に収録, 乱歩の自伝『探偵小説四十年』中、特に「『幻影城』出版と文士劇-昭和二十五・六・七年度」の「抜打座談会」、「英訳短篇集の出版-昭和三十一年度」の「探偵小説論争」など, 『随筆 黒い手帖』(特に「推理小説の魅力」)、エッセイ「木々作品のロマン性」(日本推理作家協会編『マイ・ベスト・ミステリー(4)』(2007年、文春文庫)などに収録)など。, 岡田春夫『国会爆弾男 オカッパル一代記―反戦平和に賭けた議員生活40年』、行研出版局、1987年2月刊行, 『顔』(1995年、双葉文庫、日本推理作家協会賞受賞作全集第9巻)巻末の山村正夫による解説、または山村正夫『続・推理文壇戦後史』(1978年、双葉社)48頁, 清張作品の中国での受容動向、中国人の清張観を知る資料の一例として、王成・林濤・王志松・李菁・王中忱「日本の探偵小説・推理小説と中国 その中国における受容と意味」(2006年、北九州市立松本清張記念館)、映像化作品の受容を含めて論じたものに、王成「清張ミステリーと中国-映像メディアの力」(『松本清張研究』第14号(2013年、北九州市立松本清張記念館)収録)、特に, 1961年から2009年までの清張作品の韓国語への翻訳・翻案作品一覧は、「松本清張韓国語翻訳・翻案作品目録」(『松本清張研究』第12号(2011年、北九州市立松本清張記念館)収録)参照。, 1980年代を中心に台湾での清張作品の受容に関して論じたものに、陳國偉「「歪んだ複写」:一九八〇年代台湾における松本清張の翻訳と受容」(『松本清張研究』第14号(2013年、北九州市立松本清張記念館)収録)。, 『松本清張(新潮日本文学アルバム)』(1994年、新潮社)88頁、『松本清張全集』第66巻(1996年、文藝春秋)巻末の翻訳出版目録、および『Japanese Literature in Foreign Languages 1945-1995』(1997年、the Japan P.E.N. 月報 918.6||M4 233312B. 大阪樟蔭女子大学 図書館 小阪. OPAC. タイトル読み. 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。, 芥川龍之介や菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せていた清張は、特に短編小説を好んで執筆した[注釈 25]。 木更津工業高等専門学校. Club), 講演「小説と取材」(『オール讀物』1971年7月号掲載、『松本清張の世界』(1992年、文藝春秋臨時増刊、2003年、文春文庫)収録), 『天窓の灯』(『松本清張全集 第49巻』(1983年、文藝春秋)付属の月報に掲載), 森本哲郎 「清張さんの秘密」(『松本清張全集 第34巻』(1974年、文藝春秋)付属の月報に掲載), 1960年から1980年まで、作品の素材を話し合うなど、断続的に清張と親交を持った。, 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか, https://mainichi.jp/articles/20160407/ddl/k40/040/456000c, Global Mystery Fusion Watch 山村教室特別講演 前半その7, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=松本清張&oldid=80028042, 2009年、北九州市が生誕100年記念事業を実施。1月から12月まで幼少時の滞在地を含む清張ゆかりの全国各地で展開された。, 2013年8月、復員直後の昭和20年から8年間住んでいた北九州市小倉北区黒住町の旧居が解体される。, 2016年4月6日、松本清張の旧居近くにあった小倉北区黒住町にある黒住公園が記憶継承のため「くろずみ清張公園」に名称変更された, 2018年9月16日までに、北九州市立中央図書館の書棚から、『松本清張全集』66冊のうち62冊が無くなったことが判明した, 2019年3月16日~5月12日、神奈川県立近代文学館で特別展「巨星・松本清張」が開催された, 「芥川を讃美するのはよいが、芥川作品の構成の脆弱よりも、寛の鉄骨で組み立てたような構造の見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか」(『随筆 黒い手帖』), 「菊池だったら文章に効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きなどしないで、きっちり書くだろうと思われるのである。それは志賀と菊池の生活経験の違いから来る。『, 清張が初めて海外に出たのは1964年であり、すでに50歳を越えていたが、その後は精力的に海外に出かけるようになった。『, 清張は通訳をあまり必要としない程度に英語を解した。海外取材等で通訳が同行した場合も、遮って直接英語で対応することがしばしばであった, 『Le rapide de Tokyo』(『点と線』、Masque)、『Tōkyō express』(『点と線』、Philippe Picquier)、『Le point zéro』(『ゼロの焦点』、Atelier Akatombo)、『Le vase de sable』(『砂の器』、Philippe Picquierなど)、『Un endroit discret』(『聞かなかった場所』、Actes Sudなど)、他に『La voix』(『声』、Philippe Picquierなど)、『La Femme qui lisait le journal local』(『地方紙を買う女』、Futuropolis)など。, 『Spiel mit dem Fahrplan』(『点と線』、Fischer-Taschenbuch-Verl)、他に『Mord am Amagi-Paß』(『天城越え』『紐』など収録、Fischer-Taschenbuch-Verl)など。, ルポルタージュにっぽん - 松本清張・明日香マルコ古墳を行く(1978年6月10日、NHK), 歴史随想 - 清張歴史游記(1979年4月3日 - 9月4日、NHK教育、全5回), 清張古代史をゆく - ペルセポリスから飛鳥へ(1979年4月23日・30日、NHK、全2回), 夫人によれば、新製品が出るとチェックせずにはいられなかったというくらいにカメラに凝っていた。, 人見知りをするところもあり、人との付き合いが下手であったとされる。文壇との関係も薄かった。ただ、無口ではあったが、暗い性格ではなく、身内や馴染みの者に適度に茶目っ気を見せることもあった, 「ぼくのマドンナ」像を問う企画の際、以下のように述べている。「私のマドンナ像は、いくつかの条件がある。まず、その女性との交流はプラトニックなものでなくてはならない。肉欲を感じさせるものなどもってのほか、あくまでも清純で、処女性を備えている必要がある。次ぎに、その関係は私の側からの片思いでなくてはいけない。相思相愛では、神聖な域にまで高められたイメージも、たちまちにして卑近な現実の無禄と化す。この世では到底思いのかなわぬ高嶺の花 - この隔たりこそ、切ないまでのあこがれをかきたてる要因である。私にとってのマドンナはまた、絶世の美女ではなくてはならない。いやしくもマドンナというからには、普遍化された理想像であって、個性などというものの入り込む余地はないはずだ。美人ではないが気立てのいい女、というのでは、話にならないのである」, 抽象的なタイトルの作品が少なからずあるが、これに関して清張は、連載を頼まれ、締切りが切迫してきたが、まだ筋ができていない時、連載予告上の必要に迫られ、「『波の塔』だとか、『水の炎』だとかいうような題を出しておけば、内容が推理小説であろうが、ロマン小説であろうがあるいは時代小説であろうが、あと一ヶ月のほんとうの締切りまで時間がかせげるわけであります」と、抽象的な題名をまず出しておいた結果であると述べている, 清張との厳しい思い出を語る関係者は多い。「(清張のあからさまな門前払いに遭い)涙を流した」(, 『点と線』以来、清張の原稿の遅さにやきもきする編集者の逸話は多いが、『オール讀物』編集部次長だった中井勝は「ゲームセンターのモグラ叩きで、モグラを清張さんに見立てて叩きまくった」と述べている, 最後まで小説(フィクション)を作家活動の中心に考えていた。小説以外の活動が話題となった作家に対して、「彼が小説を書かないのは、才能が枯渇したから書けないのだ」と言い、俎上にあがった著名作家は、一人や二人ではなかったと言われている。新人作家が、斬新なトリックを使ったり、史料を違った角度から照射したりすると、大いに評価していたが、ひとたび彼らが人気作家になってしまえば、ライバルの一人としか考えなかった。このため、小説に対する意地と、同業作家たちと同じ土俵で勝負するという挑戦意欲が、筆を持たせたエネルギーだったとも評されている, 長男がポーカーゲーム賭博で逮捕された不祥事が報道された際、「腹を切って詫びなければならない」と言った, 「運不運 わが小説」(エッセイ集『名札のない荷物』(1992年、新潮社)、『松本清張全集 第65巻』(1996年、文藝春秋)に収録), 『「創共協定」経過メモ』(『文藝春秋』1980年1月号掲載、『作家の手帖』(1981年、文藝春秋)に収録), 「わたしは、どちらかというと長篇よりも短篇が好きで、短篇の数が多い。短篇は、焦点が一つに絞られて、それへの集中が端的だからである。短篇小説が長篇小説ほどに迎えられないというのはふしぎだし、書き手が長篇を多く指向するのもわからない」, 「清張流「旅はひとりがいい」」(『松本清張研究』第3号(2002年、北九州市立松本清張記念館)収録), 『日本の文化と日本人』(別冊小説新潮1973年1月号掲載、『文学と社会-松本清張対談集』(1977年、新日本出版社)収録), 「天下を分けた大激戦の明暗」(『司馬遼太郎の日本史探訪』(1999年、角川文庫)収録), 『真山仁が語る横溝正史 私のこだわり人物伝』(2010年、角川文庫)中に収録された対談での, 白井佳夫・橋本忍による対談「橋本忍が語る清張映画の魅力」(『松本清張研究』第5号(1998年、砂書房)収録), 白井佳夫と川又昴による対談「松本清張の小説映画化の秘密」(『松本清張研究』第1号(1996年、砂書房)収録), 白井佳夫・堀川弘通・西村雄一郎による対談「証言・映画『黒い画集・あるサラリーマンの証言』」(『松本清張研究』第3号(1997年、砂書房)収録), 2018年4月現在、創刊準備号から第19号まで20冊刊行。詳細は松本清張記念館公式ウェブサイト(外部リンク)参照。, 『みうらじゅんの松本清張ファンブック「清張地獄八景」』 (2019年7月、文藝春秋), 1976年、『松本清張 その人生と文学』、啓隆閣新社(1993年、『松本清張の世界』光和堂), 1977年、『松本清張 続・その人生と文学』、清山社(1993年、『続・松本清張の世界』光和堂), 衛藤吉則、2015年、『松本清張にみるノンフィクションとフィクションのはざま−「哲学館事件」(『小説東京帝国大学』)を読み解く』、, 山本幸正、2020年、『松本清張が「砂の器」を書くまで ベストセラーと新聞小説の一九五〇年代、早稲田大学出版部. 以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。, 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される[注釈 4]。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。, 音読みのペンネームは小説家の中山義秀(「なかやま ぎしゅう」、本名の読みは「よしひで」)に倣ったもの。もっとも清張は、「ぎしゅう」が本名であると勘違いをしていた[3]。, 公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生まれとされ、多数の刊行物また北九州市立松本清張記念館によるものを含め、大半の資料の年譜において、小倉生まれとされている。しかし小倉は出生届が提出された場所で[5][6][7]、清張自身は1990年の読売新聞のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの」と話しており[8][9]、実際には広島県広島市で生まれたと推察される[5][7][8][10][11]。 松本清張全集. 北九州市立松本清張記念館 編、北九州市立松本清張記念館、2002.8.1、25p、30cm 表紙小キズ 書込みなし 本体良好 入金確認後、2営業日以内に発送しております。 マツモト セイチョウ ゼンシュウ. 小酒井不木らによる翻訳を「むさぼり読んだ」一方、江戸川乱歩の初期作品に傾倒した。他に、牧逸馬が手がけたノンフィクション『世界怪奇実話』に憧れ、犯罪ドキュメントものに興味を持つようになったのは、その影響であると述べている。後に作家となって以降も、牧の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧の影響であると述べている[89]。 松本清張全集など: 文學界 1956.7 別册文藝春秋 1966.6他 「月光」の旧題「花衣」 時代小説・歴史小説・伝奇小説. 大学図書館所蔵 件 / 全 9 件. 木更津工業高等専門学校. 松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 [注釈 1]- 1992年8月4日)は、日本の作家。, 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[2]。 また、『日本の黒い霧』は、すでに連載中から様々に議論を引き起こした。大岡昇平と論争を行った(後述)。, このあと清張は、実際の歴史を題材にするにあたって、小説の形式をとったもの(『小説東京帝国大学』など)、評論として書いたもの(『北一輝論』など)、小説ではあるが作中に論文を組み込んでいるもの、等々、様々なスタイルでの記述を試みていく。清張によると、「最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった」[45]。, 1961年、前年度の高額納税者番付で作家部門の1位に[46]。 戦後の作品としては、香山滋『怪異馬霊教』の強烈な個性に関心を持ったという[90]。, 1961年に出版された『随筆 黒い手帖』では、トリックの尊重や、また本格推理の面白さは肯定するが、限られた数のマニアのみを念頭に、設定や描写の奇抜さを競い合う状況が推理小説の行き詰まりを引き起こしているとして、多くの人々の現実に即したスリル・サスペンスを導入すべきことを訴えた。しかし推理小説に現実性を持たせる主張自体は、清張の独創ではない。古典的な探偵小説の非現実性に対する批判として有名なものに、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーの1944年のエッセイ「The Simple Art of Murder(素朴な殺人芸術[注釈 28])」がある。ただし、清張は「推理小説が謎解きの面白さを骨子としている以上、トリックを尊重するのは当然である」とする立場を捨てず、動機の重視など、チャンドラーとは異なる方法へと進んだ。, ほか動機の描写に力を入れることで人間描写を深めた。なお推理小説で人間を描くことについては、清張以前から議論が続けられてきた、古典的な問題である。有名なものは、清張が作家として世に出る際大きな役割を果たした木々高太郎と甲賀三郎による昭和11年-12年の「甲賀・木々論戦」である[91]。また、木々を中心とした新人推理作家グループによる、「探偵作家抜打座談会」(『新青年』1950年4月号掲載)も行われたが、乱歩によれば「探偵小説本格主義打倒の純文学論を高唱したもの」であったという[92]。推理小説に社会性を加えられることなどを主張している。, 1962年初め頃、清張は欧米の推理小説に詳しいアシスタント(清張の速記者を務めた福岡隆の親戚)を使い、トリック分類表を作成させた。分類表は江戸川乱歩「類別トリック集成」[93]の形式に倣ったものであり、6つの大カテゴリと各カテゴリ内での分類によって構成され、コナン・ドイル、アガサ・クリスティから乱歩に至る実作例が付されている。大カテゴリは以下の通り[94]。, 日本推理作家協会の理事長時代、中島河太郎と山村正夫に委嘱して、国内中心の150例近くを補充したトリック分類表を作成させた[95]。, 同時期の水上勉・有馬頼義らの執筆活動もあり、マスメディアは清張たちによる推理小説の新しい傾向を「社会派推理小説」と呼び[注釈 29]、週刊誌など当時のマスメディアの発達もあり広く歓迎された[注釈 30]。しかし清張は「社会派」の呼称が推理小説に使われることを好まなかった[97]。晩年にも、社会派の呼称は適当ではないと明言している[98]。, 1970年代の横溝正史のリバイバルブームに際しては、近年の推理小説に良い作品が少ないことの反映だとして次のように述べた。「いい作品が少ないですね、社会派ということで、風俗小説か推理小説かわからないようなものが多い。推理小説的な意味で言えば水増しだよ。それで、トリックオンリーの探偵小説、たとえば横溝さんのものなど、どんでん返しもあれば意外性もあって、コクがあるでしょう、それで読者に迎えられているんだよ」[99]。, デビュー当初の清張の執筆は歴史小説が中心であり、『くるま宿』『秀頼走路』『五十四万石の嘘』『いびき』など、多くの作品が執筆された。これらの歴史短編では、歴史の片隅でひっそりと消えていく薄幸の人々が好んで取り上げられ[100]、また前述の留置所での拘留経験が反映された『いびき』など、かつての自身の生活経験が色濃く影を落としている作品も見られる。また、清張にとって初の長編小説は歴史小説であった。作家としての知名度が上がり執筆量が激増して以降も、連作時代小説『無宿人別帳』を連載するなど、しばらくは時代・歴史小説が並行して書かれた。, 歴史小説に関して「鷗外流に史実を克明に淡々と漢語交じりに書くのが「風格のある」歴史小説ではない。史実の下層に埋没している人間を発掘することが、歴史小説家の仕事であろう。史実は結局は当時の人間心理の交渉が遺した形にすぎない。だから逆に言うと、歴史小説は、史実という形の上層から下層に掘られなければならないことになると思う。歴史小説と史実が離れられないゆえんである」[101]と述べた。, 出版社のシリーズ企画から江戸時代を論じた『幕末の動乱』がまとめられたが、その経験を生かす形で大作『かげろう絵図』『天保図録』が生まれた。, 清張は菊池寛の『日本合戦譚』(1932 - 34年、オール讀物に連載)のモチーフを生かす形で、『私説・日本合戦譚』(オール讀物連載)を執筆している。また、岡本綺堂の『半七捕物帳』を始めとする捕物帳にも関心を寄せていたが、短編集成型の連作として『彩色江戸切絵図』『紅刷り江戸噂』を執筆した。ここでも推理小説と同様、シリーズキャラクターの登場は避けられている(『虎』『見世物師』の文吾は唯一の例外)。, ノンフィクション作品に加えて、中江兆民を論じた『火の虚舟』、山縣有朋を素材とする小説『象徴の設計』、大久保利通から吉田茂・鳩山一郎などを経て1980年に至る宰相論『史観・宰相論』など、主に人物を通して近現代史を再考する取り組みが続けられた。, 文藝春秋は、その後も清張に近現代史を素材とした作品を書いてもらう意向を持っていた。頓挫した文藝春秋の企画の一つとして「戦後内閣論」がある[102]。, 晩年に至り、ノンフィクションから小説作品に案が変更され、『神々の乱心』の執筆が開始された[注釈 31]。, 日本近代史専攻の有馬学によれば、『昭和史発掘』中で清張の駆使する史料は、当時の研究者から見ても、相当な水準のブレーンがいなければ集め得ないものであったという[103]。このため種々の憶測も生まれたが、清張は「資料の捜索蒐集は、週刊文春編集部員の藤井康栄が一人であたった」と明言している[104]。, 歴史学者の成田龍一と日本文学者の小森陽一は、『日本の黒い霧』と『昭和史発掘』は、清張の戦後歴史学(アカデミズム)に対する批判意識が見出せると述べている。戦後歴史学が、権力対民衆運動の枠組みに縛られ、権力(=天皇)の問題を考察する(=天皇制は封建制の残滓であり日本の遅れの象徴という)イデオロギー構造になっていたのに対し、GHQの謀略という視点を持ち込み、また、法則性に基づいた歴史の発展(=マルクス主義)ではなく、個別ばらばらの事件を追求して背景を探るという発想自体、当時の歴史学にはなく、『日本の黒い霧』の手法が新しいものであったこと、『日本の黒い霧』は天皇をめぐる議論には触れていないため、当時の多くの歴史学者は清張の議論を軽視・無視したが、のちに清張は『昭和史発掘』でファシズムの問題に取り組み、戦後歴史学が、大政翼賛会を念頭に思想統制や治安維持法に代表される上からのファシズムを強調するパターンを取っていたのに対して、清張は下士官や兵のレベルまで資料発掘・言及する対象を拡大し、二・二六事件で決起した青年将校やA級戦犯に戦争の全ての責任があるのではなく、国民一人一人が戦争への欲望を持ち、下からファシズムを望んでいたことを論証しようとした、と指摘している[105]。, 清張の古代史への関心は、北九州中心に各地の遺跡を歩いていた小倉在住時に培われている。清張は「わたしの書く「歴史」ものでは、古代史と現代史関係が多く、その中間が抜けている。人からよく訊かれることだが、これは「よく分からない」点に惹かれているからだろう。古代史には史料が少ないために、現代史は資料が多すぎるがその価値が定まっていないために、どちらも空白の部分がある。「歴史」はやはり推理の愉しさがなくてはならない」と述べている[106]。考古学は創作の初期から重要なモチーフとなり、『断碑』『石の骨』などの短編が書かれた。, 清張の提示した仮説に関しては、その後の考古学研究や歴史学研究の成果により、現在では乗り越えられたものもある。しかし、一般の広い関心を喚起し学界に刺激を与えたとして、その着想を高く評価する学界研究者も存在している。井上光貞や上田正昭は、清張が『古代史疑』を発表した時点でこれに高い評価を与えている[107]。この対談にも参加した考古学者の佐原真はのちに、清張の考えそのものには従えないところも多いが、研究者には到底思いもよらないその発想・着想は大いに刺激的であると評している。また清張の古代史論は基本的に文献からの学習に基づいていたが、普通の研究者があまり着目しない明治期以来の古い研究史をも熟読しており、学史の学習が清張を強くしたのではないか、とその特色を分析している[108]。, 歴史学者の門脇禎二と考古学者の森浩一は、対談[109]で、清張没後に進んだ三内丸山遺跡の発掘結果により清張説が否定された例もあるものの、当時の政治史中心の学界に対して、国際的な人的交流、貿易史の視点を強調したこと、あるいは朝鮮文化の影響を大きく評価する当時の研究風潮に対して、ゾロアスター教などペルシア文化の影響力を強調したことなどは、学界に大きな刺激となったこと、また清張がいる間は、学者もテレビなどでいい加減なことは言えない雰囲気があったことなどと述懐している[110]。, 創作活動の初期から晩年まで、清張が間接的なものも含めて作品のモチーフとして取り挙げ続けた作家であり(『或る『小倉日記』伝』『鷗外の婢』『削除の復元』など)[注釈 32]、評伝的作品『両像・森鷗外』も執筆されている。, 鷗外の作品中、清張が特に重点を置いて言及しているものは、『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった史伝物である。清張は鷗外が夏目漱石よりも大人であると述べており、国文学者三好行雄との対談の中で、清張は「私は鷗外にそんなに影響を受けたとか、あるいは鷗外に私淑して、一生懸命文体なり、あるいはテーマの取り方なんかを学んだとは思いませんね。鷗外と漱石というのを比べてみますと、大人という言葉を使えば、鷗外が漱石よりはるかに大人です。」と語っている[118]。対して、漱石に対する清張の言及は、「批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのが私には不可解です。要するに漱石の作品は、実生活の経験がなく、書斎に閉じこもって頭で書いたものだからです」といっている[119]。清張が鷗外に終生関心を持ち続けた動機・背景に関しては、現在でも議論が続いている[120]。, 清張自身が影響を受けたことをしばしば表明していた。菊池は文藝春秋の創設者であるが、清張は16・17歳から20歳過ぎまでかなり菊池の考え方に影響されたと述べ、『大島ができる話』『啓吉の誘惑』『妻の非難』『R』など、菊池寛の「啓吉もの」が自分の読書歴の古典であり、今でも文章の一部を暗記しているくらいであると清張は述べている[121]。その作品を生活経験に裏付けられたものとして高く評価した。菊池を論じた作品として、文藝春秋での佐佐木茂索との関係を軸にした『形影 菊池寛と佐佐木茂索』がある。, 清張が共鳴した菊池寛の考え方を示すものとして、「小説家たらんとする青年に与ふ」(『文芸倶楽部』1921年9月号掲載)がある。この中で菊池は「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るといふことと、ある程度に、人生に対する考へ、所謂人生観といふべきものを、きちんと持つといふことが必要である」と述べている。, 16 - 17歳の清張が強い感銘を受けた『小説研究十六講』について「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説を書いてみたい気になった。それほどこの本は私に強い感銘を与えた」「(思い出の一冊にとどまらず)いまでも私に役立っている」と言っている[122]。清張のこのエッセイを読んだ木村は「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章はめったにない(中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ、自信をつけ、再生の思いをさせた」[123]。鶴見俊輔によれば、『小説研究十六講』は、「昭和初期まで相当の影響力を持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという[124]。, 小倉から東京へ転居した際、清張は真っ先に木村の自宅を訪問し、その後も交流を続けた。「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作を飽きもせず渉猟して、埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌に講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」[123]。清張の『暗い血の旋舞』に先立ち、クーデンホーフ光子の伝記を残している。, 木村の死去に際して清張は「葉脈探求の人-木村毅氏と私」[注釈 33]を書き、追悼した。同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。」「高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった」と述べている[125]。, 1952年以降文筆活動から遠ざかっていたが、清張の活動に刺激を受け、1959年に推理小説『霧と影』を発表、その後社会派推理作家として認められた。水上は清張から取材・執筆のアドバイスを与えられ、直木賞受賞作品『雁の寺』は激賞を受けたという[126]。, 『日本の黒い霧』掲載誌の文藝春秋には好意的な評価も寄せられる一方、作家の大岡昇平は「私はこの作者の性格と経歴に潜む或る不幸なものに同情を禁じ得なかったが、その現われ方において、これは甚だ危険な作家であるという印象を強めたのである。「小倉日記」「断碑」は、国文学や考古学の町の篤学者が、アカデミズムに反抗して倒れる物語である(中略)。学問的追及を記述するという点で、推理小説の趣きであるが、推理がモチーフではない。と言って感傷的な悲憤慷慨小説でもないので、学界、アカデミズムというものの非情さと共に、それに反抗して倒れて行く主人公の偏執も、冷たく突放して描いてある。後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向うわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現われた無力な憎悪は一貫しているのである」「(『日本の黒い霧』が)政治の真実を書いたものと考えたことは一度もない」「無責任に摘発された「真相」は松本自身の感情によって歪められている」「彼(清張)の推理は、データに基づいて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実を組み合わせるというふうに働いている。」と批判した[127]。, 大岡の批判に対して、清張は以下のように反論している。「(真実を)描き出していないと断定する以上、大岡氏はその真実の実際を知っていなければならぬ」「大岡氏がどれだけ真実の実際を知っておられるか教示を乞いたいものである」「『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。そのほか、こういう書き方が「固有の意味での文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間めいた"ヌエ的"なしろもの」と非難する人[注釈 34]もあった。これも、私という人間が小説家であるということから疑問を持たれたのであろう。私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。」「「松本清張批判」をよく読んでみると、これは単独に私に向けられた矢だけとは思えない。私への批判はその間に、伊藤整氏[注釈 35]、平野謙氏[注釈 36]という二枚のフィルターが嵌められていて、光線が水中で屈折するがごとく向かってくる」「(大岡の言う)個人の拳が組織の悪を散々に破壊する力を持たないことは明白であり、そのようなものを書こうとしたら、チャチな活劇映画も顔負けするような茶番になる」「大岡氏の一連の「常識的文学論」は、多分に実証的批評で大変面白かったが、こと「松本清張批判」に関する限り、蓋然たる気分でものを云っておられると思う」[129][注釈 37]。, 清張と同様に直木賞選考委員を務めた(第62回 - 第82回、清張は第45回 - 第82回)。清張との対談も行っており[130]、両者の人間観・歴史観の差異をうかがうことができる[131][注釈 38]。, 司馬が日本の歴史上しばしばとりあげた時代は、戦国・安土桃山時代や幕末・明治期であるが、清張が得意としたのは、江戸時代を思わせる時代小説を別にすれば、奈良時代以前の古代と昭和期であった(両者ともに例外多数)。また、終生森鷗外に関心を持っていた清張[134]に対し、晩年の司馬は夏目漱石を評価している。, 1994年の文藝春秋創刊1000号記念特集号にあたり、同誌への執筆回数を相撲の番付形式で紹介しているが、清張は東横綱、司馬は東大関とされており(なお西横綱は井上靖、司馬の死去は1996年)、昭和期の同誌における両者の存在感の大きさがわかる。, 1963年、中央公論社が文学全集『日本の文学』を刊行する際、中央公論社側は清張をラインナップに加えたい意向を示したが、三島由紀夫は反対・拒否した。川端康成と谷崎潤一郎は清張を加えることに必ずしも反対せず、妥協案も示したが、三島は譲らなかった[135][注釈 39]。『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻・1969 - 70年)出版の際は、清張と共に編集委員を務めた。, 清張の三島評として、1978年の国文学者・三好行雄との対談や、『過ぎゆく日暦(カレンダー)』収録の日記などがある。三好との対談で清張は「三島由紀夫があんなふうに最後に、右翼だとか、国家主義者だとか言われているのは、皮相な観察だと私は思う。彼は題材を求めてそこに流されていったと思うんです。(中略)そのことは大江健三郎でもある程度言えそうです。あの人はもともと左翼でもなければ、いわゆる進歩的文化人のタイプじゃないと思う。学生からすぐに作家生活に入った。だから「死者の奢り」のような感覚的文章が本来の大江健三郎だと思います。ところがたまたま反米的な材料をとるというようなことから、これは小説のために材料をとったと言っていいところがある。(芥川龍之介・三島・大江の)三者に共通しているのは、材料の(生活に根ざしていない)人工的な面ですね」と述べている[136]。また山崎豊子との対談中でも、三島・大江に関してほぼ同じ見解を述べている[137]。, 思想史家の仲正昌樹は、自らの実生活から作品の材料を掘り出していると自負する清張にとって、美の世界に自己を同化させようとしたり特殊な体験に基づき創作する芥川・三島・大江は異質の存在であったと述べている[138]。, もっとも清張も三島の才能そのものは高く評価しており、『半生の記』の雑誌初出である「回想的自叙伝」では『花ざかりの森』を「才筆にあふれている」と述べ、また後年にも「芥川(龍之介)は三島の前にはあまりに小さすぎる」「才能は三島のほうがはるかに川端(康成)を凌いでいる」などと述べ、三島の豊かな天分は特に短編に発揮されたと評している[139]。, この他、オランダ語・スペイン語・ポルトガル語・チェコ語・フィンランド語・エストニア語・リトアニア語・ブルガリア語・ギリシア語・ロシア語・アルメニア語・グルジア語・韓国語[165]や台湾[166]での翻訳もある[167]。, この時期に推理小説はその本来のあるべき性格を失いつつあった。その理由の一つは題材主義に倚りかかりすぎたためであり、一つはジャーナリズムが多作品を要求したため不適格な作品が推理小説の名において横行したことであり、もう一つは、その結果、推理作家自体の衰弱を来したことである。これは反省すべきことであった」「今や推理小説は本来の性格に還らなければならない。社会派、風俗派はその得た場所に独立すべきである。本格は本格に還れ、である。, ぼくの史観?

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