松本清張 全集 目次 7

『昭和史発掘』(しょうわしはっくつ)は、小説家松本清張によるノンフィクション 作品。1964年7月6日号から1971年4月12日号まで文藝春秋の週刊誌『週刊文春』に連載された。 発行部数は300万部を突破している 。 1967年の第1回吉川英治文学賞、1970年の第18回菊池寛賞受賞作品。 以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。, 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される[注釈 4]。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。, 音読みのペンネームは小説家の中山義秀(「なかやま ぎしゅう」、本名の読みは「よしひで」)に倣ったもの。もっとも清張は、「ぎしゅう」が本名であると勘違いをしていた[3]。, 公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生まれとされ、多数の刊行物また北九州市立松本清張記念館によるものを含め、大半の資料の年譜において、小倉生まれとされている。しかし小倉は出生届が提出された場所で[5][6][7]、清張自身は1990年の読売新聞のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの」と話しており[8][9]、実際には広島県広島市で生まれたと推察される[5][7][8][10][11]。 5 918 7. 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。, 芥川龍之介や菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せていた清張は、特に短編小説を好んで執筆した[注釈 25]。 小酒井不木らによる翻訳を「むさぼり読んだ」一方、江戸川乱歩の初期作品に傾倒した。他に、牧逸馬が手がけたノンフィクション『世界怪奇実話』に憧れ、犯罪ドキュメントものに興味を持つようになったのは、その影響であると述べている。後に作家となって以降も、牧の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧の影響であると述べている[89]。 通常配送料無料. 松本清張の作品一覧(まつもとせいちょうのさくひんいちらん)は、作家の松本清張による作品の一覧・リストである。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=松本清張の作品一覧&oldid=78960668, 実際には選集。全巻の構成は、本ページ末尾の外部リンク(文藝春秋特設サイト)を参照。, 時代小説・歴史小説・伝奇小説のみで構成される作品集は、下の時代小説・歴史小説・伝奇小説リストを参照。, 現在市販されている短編集は、最初の書籍化当時とは異なる組み合わせで編集されたものが多い。個々作品集の収録作には重複等があることを留意されたい。, 時代・歴史・伝奇小説以外の作品が混在している短編集はこのリストに含めていない。上の短編小説集リストも参照。, 「推理小説の魅力」「推理小説の発想」「現代の犯罪」「二つの推理」「推理小説の周辺」, 「京都の旅(1)」「奈良の旅」「東京の旅」「京都の旅(2)」「鎌倉(箱根・伊豆)の旅」「南紀(伊勢志摩)の旅」, 1970年 - 1972年の「潮」誌上「わが体験」を編集。1994年版は「わが体験 人生こぼれ話」。, 「創作ヒント・ノート」「折々のおぼえがき」「福山先生の手紙」「「読書カード」」「はじめてのヨーロッパ(一九六四年)」「取材旅行(オランダ・ベルギー・イギリス)」「「創共協定」経過メモ」, 『週刊朝日』1982.9.17 - 1984.4.20掲載(月1回の連載)、朝日文庫版後半には『図書』1985.1 - 7・9に「古史眼烟」の題で掲載されたエッセイを併収, 「怨霊のなぐさめ」「天正十年のマクベス」「「兵隊王」の丘から」「立ち止まる賢人」「日記メモ1968・2」「日記メモ1968・3」「南半球の倒三角」「人類共通の敵エイズを考える」, 「調べ推理する楽しみ」「倫敦犯罪古書」「日本最古の暗号文学」「「史料」と「西域探検」」「未完短篇小説集」「フリーメーソンP2マフィア迷走記-ヨーロッパ取材記-」「グルノーブルの吹奏」「江戸川乱歩論」「いまだ見ぬ花-ぼくのマドンナ」「葉脈探究の人-木村毅氏と私」他計17編, 『小説推理』1976.6 - 1977.3の間断続的に掲載・『カッパまがじん』1977.1掲載, 謎の源流-松本清張・古代史新考問答 (1981年、角川書店) ※『野性時代』1980.5 - 11の間断続的に掲載, ヤマタイ国・聖徳太子・壬申の乱・大仏開眼・運慶・細川幽斎・本能寺の変・豊臣秀吉・佐渡金山・大岡越前守・田沼意次・伊能忠敬・水野忠邦, トンニャット・ホテルの客 ※『野性時代』1974.5・6・8掲載→未完中絶、2012.3作品再掲(付録), 江戸綺談 甲州霊嶽党 ※『週刊新潮』1992.1.2・9新年特大号 - 5.14掲載→病気のため休載, 山前譲 「「点と線」以前の初期単行本」(『松本清張研究』Vol2(砂書房)に収録), 「清張古代史の軌跡-関連作品・記事・著書目録」(『松本清張研究』第6号(2005年、, 佐藤芳子・栁原暁子編 「清張歴史時代小説-関連作品・記事目録」(『松本清張研究』第7号(2006年、北九州市立松本清張記念館)に収録). 日外アソシエーツは2014年刊行の『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』で、松本清張の出生地を「広島県広島市」と記載している[10]。清張自身が「広島で生まれた」と話し、藤井が「松本清張は広島生まれ」と公表したものの、藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れる一方[21]、現在も「小倉生まれ」との見解をとっている。, 清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが[22]、以降、年譜関連の記述では出生地を福岡県小倉市(または単に福岡県)と記される。ただ清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と発言・記述したことはない。なお『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったことも指摘されている[23]。この点について郷原宏は「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している[24]。2010年の広島市郷土資料館展示では、清張の広島出身の可能性が、多くの資料により検証されている[8][12][25]。, 父・松本峯太郎は鳥取県日野郡日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした[注釈 5]。青年期に広島市に出奔し、書生や看護雑役夫などをする。, 当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚[12]。清張の姉2人は乳児のときに死亡している。, 年譜では、この後「当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に移ったものらしい」と書かれ、この後に清張は生まれたと書かれている。, しかし、読売新聞のインタビューでは、清張自身が「生まれのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島である。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」と話している[9]。, 実際の誕生日に関しては、松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の台紙の裏に、「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と墨書されており、残されている幼児期の他の肖像写真にも、「明治四十二年二月十二日 同年六月二十七日写 松本清治[注釈 6]」と書かれている[28]。これらの写真や台紙に記載のある写真館は、広島市内に当時実在したことが確認されている[11][8]。両親が自分の子の誕生日を二度にわたり誤記する可能性は低いことから、1909年2月12日が清張の実際の誕生日であると推定される。, 12月21日という日付は、出生届が受理された戸籍上の誕生日の可能性が高く、広島から小倉に移った両親が、まだ出生届を出していなかったことに気づき、あるいは他人から指摘されて届け出を出した日か、その際、届け出の遅れを吏員に叱責されるのを恐れ、届け出日の数日前を記入した、などの事情が考えられる[29]。, 清張は実際には1909年2月12日に広島市で生まれ、2枚目の写真が撮られた同年6月27日までは少なくとも広島に居住しており、出生届を出したとされる同年12月21日頃までの間に一家は広島を出て、小倉で同年12月21日頃に出生届を提出、その後に祖父母のいる下関市に移住した、と考えられる[30]。清張は『半生の記』で「広島から峯太郎とタニとが九州小倉に移った事情はよく分からない。(中略)それで、炭鉱景気で繁昌している北九州の噂を聞いて、ふらふらと関門海峡を渡ったのではないかと想像する。明治四十二年十二月二十一日に私が生まれている」と書いている。, 清張は自身の過去についてはあまり話さなかったともいわれ[31]、出生から作家として世に出るまでの記述は主として『半生の記』を基に作成されている[32]。, 1910年、下関市壇ノ浦に転居。家の裏は渦潮巻く海で、家の半分は石垣からはみ出し、海に打った杭の上に載っていた。両親は、ここで通行人相手の餅屋を始める。だが3年後に、線路建設のためダイナマイトで火の山麓を崩していた際に起こった地滑りのため家が押し潰され、同市田中町に移った。父はあらゆる下層の職業を転々としたが、学問については憧憬を持ち、夜手枕で清張に本を読ませて聞かせた。両親には一人っ子のため溺愛された。清張7歳の時に父は借金取りに追われて姿をくらます。残された母と清張は知人の家に世話なる生活を経験している。11歳まで下関にて育つ。1916年、下関市立菁莪尋常小学校に入学。, 1920年、家族で小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。小倉に定住したのは小学校5年生の時(10歳〜11歳)と推定される[注釈 7]。, 古船場町の銭湯の持で暮らし、後にバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がす露天商を経て翌年、飲食店を開業した。, 1922年に小倉で発行された同人誌『とりいれ』に「風と稲」と題する松本清張名義の詩が掲載されており、これが従来は知られていない少年期の清張作品である可能性が指摘されている[34]。, 生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった[35]。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。, やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15、6歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。ほかに菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで、森鷗外、夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などを読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。, だが1927年、出張所が閉鎖され失職。子供の頃から新聞記者に憧れていた清張は、地元紙『鎮西報』の社長を訪ねて採用を申し入れたが、大学卒でなければ雇えないと拒否された。この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化、失職中の清張も露店を手伝い、小倉の兵営のそばで、パンや餅などを売っていた。文学熱はさらに高まり、八幡製鉄や東洋陶器に勤める職工たちと文学を通じて交際、文学サークルで短篇の習作を朗読したりした。また、木村毅の『小説研究十六講』を読んで感銘を受けた。, 1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は[15]、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、ふたたび工場廃液の悪臭がただよう中島町に戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。, 1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。, 1931年に印刷所が潰れ、約2年ぶりに高崎印刷所に戻ったが、博多の嶋井オフセット印刷所(正確には嶋井精華堂印刷所。博多三傑の一人、島井宗室の末裔が経営)で半年間見習いとなった。ポスターの図案を習うつもりだったものの、文字もデザインの一つだからという理由で、もっぱら文字を書かされていた。書を清張に教えたのは、能書家で俳誌「万燈」の主宰者でもあった江口竹亭であった。後の作品中に覗われる俳句趣味・能書家の下地がここで培われた[36]。, その後みたび高崎印刷所に復帰、ようやく一人前の職人として認められた。その頃から広告図案が重視されるようになり、嶋井精華堂で学んだ技術が役立った。1936年11月、佐賀県人・内田ナヲと見合い結婚。ナヲが裁縫を習いに通っていた近所の寺の住職の紹介であった[37]。, 高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)が門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託、1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女、1940年に長男、1942年に次男が誕生している。, 1943年には広告部意匠係に所属する正社員となったが、独創性を必要とされない仕事内容で、また学歴差別が根強く、実力を評価されない職場環境であり、『半生の記』ではこの時期を「概して退屈」「空虚」と記している。そのような中、清張の楽しみの一つは、図案家仲間との交流であった。仲間と共に年に一回、ポスターの展示会を開き、東京から有名なデザイナーを呼んで審査してもらっていた。もう一つの楽しみは、北九州の遺跡めぐりであった。当時清張の職場の隣席に浅野という校正係がおり、浅野は収集した石器や土器の破片を取り出して清張に見せ、考古学者・森本六爾の話をして聞かせたという。浅野の影響から、休日には各地の遺跡を訪ね歩いた。, やがて教育召集のため、久留米第56師団歩兵第148連隊に入隊、陸軍衛生二等兵として3ヶ月の軍務に服した。その後、1944年6月、臨時召集の令状が届いた。この時は、久留米第86師団歩兵第187連隊に入隊、直ちに歩兵第78連隊補充隊への転属を命じられるが、これはニューギニアへ補充のために送られる部隊であった。, 補充隊は朝鮮に渡り、7月4日に竜山に到着、同地に駐屯となった。その後、戦況の変化から同部隊のニューギニア行きは中止となったため、清張は中隊付きの衛生兵として医務室勤務となり、軍医の傍らでカルテを書いたり、薬品係に渡す薬剤の名前を書き入れたりする作業に従事した。12月に陸軍衛生一等兵となる。1945年3月、歩兵第292連隊第6中隊に編入され、4月には歩兵第429連隊に転属した。所属は変わっても衛生兵としての任務は変わらなかった。5月、第150師団軍医部勤務となり、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級、終戦を同地で迎えた。, 10月末、家族が疎開していた佐賀県神埼町の農家へ帰還、朝日新聞社に復職した。小倉市内の黒原営団(現、黒住町)の元兵器厰の工員住宅に住み、砂津に在った朝日新聞西部本社まで歩いて通勤していた。20坪前後の敷地に一家8人で生活した[38]。しかし当時の新聞はタブロイド版1枚、広告は活字の案内広告だけで、事実上清張の仕事はなかった。会社の給料だけでは生活困難であったため、会社の休日や食糧買い出し制度を利用し、藁箒の仲買のアルバイトを始めた。佐賀地域の農家が副業で作る藁箒を仕入れ、小倉近辺の荒物屋に卸した。当初清張の活動範囲は北九州だけであったが、そのうち広島まで足を延ばし、やがて見本を持って関西方面にまで遠出、空いた時間を使って京都や奈良、飛鳥の古い寺社を見学した。, 1948年頃になると、正規の問屋が復活しこのアルバイトが成り立たなくなったため、今度は印刷屋の版下描きや商店街のショーウィンドウの飾り付けなどのアルバイトに従事。また生活費を稼ぐ目的もあって、観光ポスターコンクールなどに応募していた。, 木村毅の『小説研究十六講』を座右の書としていたが、もともと作家志望ではなく生活のために勤務中の1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選[注釈 8]。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。全国観光ポスター公募でも、『天草へ』が推選賞を取った。, 1952年、木々高太郎の勧めで『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表。同年、日本宣伝美術協会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とした。, 1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の1人であった坂口安吾から激賞され[注釈 9]、第28回芥川賞を受賞。, 1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり[注釈 10]、上京する。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家[注釈 11]に寄宿した。, 翌1954年の7月に一家が上京。当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、3年後の1957年に石神井に転居した[40]。, 朝日新聞社勤務時代には歴史書を雑読し、広告部校閲係の先輩から民俗学の雑誌を借りて読んでいた。また樋口清之の考古学入門書を愛読していた[41]。, 西部本社勤務時に引き続いて意匠係の主任となったが、1956年5月31日付で朝日新聞社を退社。退社の直接の契機は井上靖からの助言であった[42]。, 1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年短編集『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞。同年から雑誌『旅』に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった[2]。, その後も執筆量は衰えず、『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく「タイプライター」です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している[43]。しかしのち、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。, 1959年、帝銀事件を題材にして『小説帝銀事件』を発表。帝銀事件は当時すでに最高裁で被告に死刑の判決が下されており、裁判は終わっていた。それを踏まえて改めて事件を「推理」することは、裁判批判を意味した。ただし当時は裁判批判が高まった時期であり、清張が特殊であったわけではない。松川事件に対しては、作家の広津和郎が裁判批判を書き、宇野浩二は「世にも不思議な物語」(『文藝春秋』1953年10月号掲載)を執筆、清張も広津を支援するなどの活動を続けた。, 下山事件に関しては、清張は広津や南原繁元東京帝大総長とともに「下山事件研究会」を結成、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として真相究明を訴え続けた。, 1960年、ノンフィクション『日本の黒い霧』の連載がはじまる。『日本の黒い霧』は『文藝春秋』の1960年1月号から連載され、第二次世界大戦終結以後、1945年から1952年までの7年間に日本で起こった10の諸事件(下山事件、もく星号墜落事故、白鳥事件、ラストヴォロフ事件、ゾルゲ事件、鹿地事件、松川事件など)に対する清張の推論とその背景が論じられた。同書は連載中から大きな反響を呼び、「黒い霧」は流行語になった。当時はまだノンフィクションが一般的に読まれる時代ではなく、同ジャンル隆盛のもととなった作品の一つとされている[注釈 12]。 松本清張全集. 松本清張著 . 大学図書館所蔵 件 / 全 9 件. 4月4日、ファム・ヴァン・ドン首相との単独会見に成功した[注釈 15]。 マツモト セイチョウ ゼンシュウ. 松本清張著 . 講演の中で、日本の推理小説作家の作品は、翻訳数が少ないために知られていないが、海外の作品に比べて遜色がないと紹介し、日本の作家のトリックは欧米よりもすぐれているものが多くある、とも述べている[72]。帰国後には、日本の推理小説の真価を海外に知らせるため、外国語翻訳がもっと行われるべきであると主張した[66]。, また、フランスの推理作家・評論家のフランソワ・リヴィエールとの対談において、推理小説には骨格としてアイデア・トリックの独自性が必要であるが、他方単調さを回避するために副主題を伴うべきで、既成事実への疑問追及や既成観念への挑戦がテーマとしてうってつけである、と「ネオ・本格推理小説」を提唱した[66]。, 1990年、「社会派推理小説の創始、現代史発掘など多年にわたる幅広い作家活動」で1989年度朝日賞受賞。, 時代・歴史小説の執筆は減少傾向を示したが、最晩年には再び時代小説『江戸綺談 甲州霊嶽党』に取り組んでいた。上田正昭によれば、織田信長の比叡山焼き討ちを、延暦寺側から描く作品の構想も持ち、1992年春から取材を開始していた[73]。, 他にもグルノーブルの原子力発電所に絡んだ推理長編を構想しており、1992年の年明けに中央公論社の会長・社長を招いて執筆を約束、初夏にヨーロッパを取材する予定であった。グルノーブルに加えて、パリ、リヨン、モンテカルロ、ウィーン、ブリュッセルなどを舞台とする構想だったという[74]。, 1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院、手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓癌であることが判明し、8月4日に死去した、82歳没[1]。, 遺書には「自分は努力だけはして来た」などと記されていた[75]。 北九州市立松本清張記念館 編、北九州市立松本清張記念館、2002.8.1、25p、30cm 表紙小キズ 書込みなし 本体良好 入金確認後、2営業日以内に発送しております。 大阪樟蔭女子大学 図書館 小阪. OPAC. 特に初期はほとんどが短編作品であり、文学的な意味での完成度において、短編作品を高く評価する論者も少なくない[注釈 26]。, これらの作品ではとりわけ、「何らかの意味で劣等感を抱いたり、社会的に孤立したりしながら、心の底では世の中を見返してやりたいという熱烈な現世欲を抱き、そのためにかえって破滅するような孤独で偏執的な人間像」[注釈 27]が好んで取り上げられている。, その後、大きな反響を呼んだ『黒い画集』をはじめ、連作形式での短編発表が続き、清張の創作活動の大きな柱の一つとなった。長編執筆が主体となり、短編の創作量は減少したが、晩年に入っても短編シリーズ『松本清張短篇小説館』『草の径』を発表するなど、最後まで短編創作の試みは続けられた。歴史上の人物に新たな焦点を当てるなど、様々な角度からの創作が行われている。, 推理小説に清張がよく親しむようになったのは、川北電気小倉出張所の給仕時代、17・8歳の頃であった。雑誌『新青年』(1920年創刊)に掲載された翻訳小説により探偵小説の面白さを知った、と回想している[88]。 松本清張全集. 単行本 ¥3,418 ¥3,418. OPAC. 木更津工業高等専門学校. 63ポイント(2%) 明日中11/4 までにお届け. 文藝春秋, 1971.4-1996.3. 松本清張全集など: 文學界 1956.7 別册文藝春秋 1966.6他 「月光」の旧題「花衣」 時代小説・歴史小説・伝奇小説. 松本清張全集 第7巻 別冊黒い画集 ミステリーの系譜 - 松本 清張 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 日本文学史に多大な影響を与えた作家、松本清張。没後25年以上経つ現在でも人々を魅了してやまず、今なお愛され続けています。この記事では様々なジャンルで千以上の作品を残した松本清張のおすすめ作品をランキング形式で紹介。松本清張作品の選び方についても解説しています。 松本清張全集 第7巻 別冊黒い画集 ミステリーの系譜 - 松本 清張 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。 目次 松本清張[論考+エッセイ] 第一章 〈邪馬台国〉史考 日本の古代国家 邪馬台国の謎を探る/玻璃の璧と伊都国 邪馬台国「私説の要点」/吉野ケ里と邪馬台国の影 逃げ水 邪馬台国 第二章 〈記紀・風土記〉考 出雲国風土記(抄)/日本書紀をよむ(抄) 第三章 〈飛鳥と古代アジア〉史考 � クィーン(フレデリック・ダネイ)との対談中、推理小説の基本的な考え方について互いに同意する一方、意見を対立させる局面もあった。クィーンは推理小説の世界ベスト10として、イギリスの推理作家トマス・バークによる「オッターモール氏の手」をあげたが、清張は「意外性のみを狙ったもので動機皆無、普遍性がない」と主張し、論争になった[64]。, なお、アメリカ版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』において、初めて掲載された日本人推理作家の作品は、清張の『地方紙を買う女』である。クィーンと清張との縁はその後も続いた。クィーンは1967年に起こったジム・トンプソンの失踪事件に関心を持っており、すでに『熱い絹』の執筆に着手していた清張と関心を共有することになった[65]。清張やクィーンの作品を取り上げたテレビドラマ「傑作推理劇場」では、冒頭でクィーンが前説を述べる趣向が取られた。のちに清張はフランス世界推理作家会議で「あなたの作風はクィーンに似ていると思うが?」と質問された際、明確に否定している[66]。, 清張は映画・テレビの企画制作を目的として、映画監督の野村芳太郎らと1978年11月に「霧プロダクション」を設立、代表取締役に就任した。同プロダクションは1984年まで続いた[67]。同プロダクションの設立に清張が熱意を示したのは、『黒地の絵』の映画化を強く望んでいたからだとされており、発足前の仮称は「黒地の絵プロダクション」とも報じられていた[68]。, 1978年に2度目のイラン訪問、NHKの取材に同行し、翌年『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)を書き下ろし刊行した。取材中には、大地震とパフラヴィー朝の国王退陣を求める反政府暴動に遭遇した。同年、 第29回NHK放送文化賞受賞。, 1981年の「正倉院展」(東京国立博物館)に際して、東京・京都で開かれたシンポジウムに参加した[69]。この1981年頃には、鑑真をテーマにした歴史小説を『群像』に連載する構想を持っていた[70]。, 1982年3月30日、「労組潰し」とも評された国鉄問題について「国鉄の自主再建を願う7人委員会」が発足し、会員として参加した。メンバーは中野好夫、都留重人、大河内一男、木下順二、沼田稲次郎(前都立大学学長)、矢島せい子(国民の足を守る会中央会議)。発足にあたっては、私学会館(アルカディア市ヶ谷)で協議した。清張はこの会について「硬直し、泥沼化していく労使の現状を見ておれない。声なき声を代表して、双方が真剣な気持ちで問題解決に取り組んでくれるようになれば」と述べている。, 1983年には19作品、24回の新作ドラマが放送されるなど、視聴率を確保できるとされた清張作品のドラマ化は過熱気味となっていたが、原作のテーマから逸脱した不本意な映像化を防ぐ目的もあり、霧プロダクション解散後の1985年に「霧企画事務所」が設立され、清張は監査役を務めた(2000年に解散)。, 1983年、インドを訪問。朝日放送の取材に同行し、デリー・マドラス・コルカタなどを歩いた。帰国後に『密教の水源をみる 空海・中国・インド』(講談社)を書き下ろし刊行した。, 同年には中国も訪問し、北京で周揚・中国文学芸術界連合会主席、馮牧・中国作家協会副主席と会談した。清張は「文学は面白いことが第一。説教調のものでは読者に倦きられる」と主張したが、中国側は「文学作品としての水準が先決」とした。, 1984年、『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日・朝日放送)を監修。自身毎週コメンテーターとして出演。, 1985年にスコットランドやフランスのカルナック列石を、「清張古代史をゆく」の続編の取材のため調査、ヨーロッパ巨石文化の謎に取り組んだ[注釈 21]。, 1986年以降発掘調査が続く吉野ヶ里遺跡に関してもシンポジウムや講演会に参加した[注釈 22]。, 1986年に『点と線』の英訳(ペーパーバック版)が発売された際、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、「伝統的なものではあるが、息もつかせぬ探偵小説」として紹介された。, 1987年、フランス東部グルノーブルでの第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本の推理作家[注釈 23]として初めて出席、講演を行った[71]。

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